第1章 |
名人戦契約交渉が決裂
1965年〜1976年 |
棋士たちに大きな影響力を及ぼした名人戦と順位戦制度
過去の名人戦の名勝負と盤上ドラマ
記録係を数多く務めた奨励会時代
連絡係、記録係として見た大山時代の名人戦
中原新名人が誕生した節目の年に田丸が四段昇段
将棋会館建設問題で理事会が総辞職して超大型内閣が発足
囲碁名人戦の契約金問題が将棋名人戦にも波及
名人戦の中原自然流と大内怒涛流の対決に大注目
痛恨の一手で名人位を取り逃がした大内
名人戦契約金問題の最中に中原―米長の名人戦
名人戦は連盟と朝日の交渉が決裂して古巣の毎日に復帰 |
|
第2章 |
幻の名人戦移籍案
1976年〜2003年 |
名人戦契約が終わった朝日のその後の将棋欄
朝日の将棋欄にプロ公式戦が4年ぶりに掲載
文化的な目玉事業として名人戦を守り育てた毎日
大山が連盟会長を退任して二上新体制に
連盟の渉外担当理事が朝日に名人戦復帰を打診
大山、中原、米長らの反対で朝日の名人戦問題は廃案
羽生世代の棋士たちが名人位を獲得して勢力図は様変わり |
|
第3章 |
初の名人戦共催
2003年〜 |
二上が連盟会長を退任して後任に中原、米長
経営諮問委員会が朝日への名人戦移管を連盟に提言
連盟理事会が名人戦契約の解消を毎日に通告
連盟が苦肉の策として毎日、朝日の名人戦共催を提案
毎日が希望する名人戦単独主催案は臨時総会で否決
名人戦契約問題は毎日、朝日の共催で決着
初めて尽くしの共催名人戦で羽生が十九世名人を取得
名人戦の対局中に羽生にサインを頼んだ名観戦記者
将棋連盟と棋戦主催者の新聞社などとの関係 |
|
第4章 |
思い出の対局 |
2度目の「東西決戦」に勝って四段昇段
C級1組昇級と同時に相手の棋士の「首」を切った一戦
順位戦で最後の「師弟戦」となった佐瀬―田丸戦
名人経験者の塚田、升田と最初で最後の対局
夢うつつで考えた手法を用いて大山に初勝利
毎年のように降級の危機に陥ったB級1組時代
「羽生増刊号」で羽生の棋譜を並べて臨んだ羽生との対局
島との直接対決に勝って棋士20年目・41歳でA級昇級
A級順位戦の対局で兄弟子の米長の強さを痛感
B級1組に通算16期も在籍した実績が唯一の誇り |
|
第5章 |
盤外エピソード |
将棋雑誌に記事を書いたのを契機にカメラに興味
「カメラ小僧」になって写真を撮りまくった若手棋士時代
北海道・札幌での野外将棋イベントに参加
作家の山口瞳の自宅での将棋会はサロンの趣
将棋の国際普及事業で20日間にわたるアメリカ旅行
菅直人が厚生大臣室で好敵手の政治家と早指し将棋
『将棋世界』誌の編集長を2年間担当
今後の生き方は異能派の「桂香」のような持ち分 |
|